オヤジさん、満員電車で吊革両手持ちはないわあ。
あと外国人グループが降りるときに「スイマセン」と一斉に。
そういう掛け声じゃないから。
#満員電車
満員電車には物語がある。
経験した人にはわかるだろうが、朝の出勤時には身動きができないほどの密度になるのだ。
あれだけの人数が毎日毎日、電車に乗っているんだ。
物語が生まれないわけが無い。
当たり前の世界に目を向けていないだけ。
気がつこうとしていないだけなのだ。
満員電車で吊革両手持ち
このまま、つり輪をしてしまうのではないかという期待と周りからの冷ややかな目。
自分も冷ややかな目を送る側なのだが、・・・・だが、しかし
いかんせん、最も腕力が要求される種目であるつり輪を、この腹ぼての親父さんがやってくれるのかと期待している自分もいる。
悪魔の自分が、「つり輪しちゃえよ、YOU」とオヤジにエールを送っている。
天使の自分が、「他の人に吊革を渡してあげなさい」と注意しろと言っている。
まもなく自分は降車駅。結論が出ないまま時は過ぎ去っていく。
そして、時は残酷にも新たな物語を始める。
外国人による「スイマセン」の斉唱
降車駅で起こった 「スイマセン」の斉唱である。
これに似た風景を昔見たことがある。
「手をあわせましょう、いただきます」である。
本当に目の前のある贄となった全ての生き物、動植物に感謝しての儀式ではなく
食べる前にしなければならない慣例となってしまった動作の1つ。
その間違った精神を今、目の前で見たような感じだった。
これから仕事と言う疲れたサラリーマンが、わびさびの心で
「かたじけない、かたじけない、この窮屈な中で、外に出るために皆さんに迷惑をかけ申し訳ない」
という思いのこもった「スイマセン」で無ければ意味が無いのだ。
あなたたち(外国人)が斉唱している「スイマセン」は卒業式で仕方なく歌っている君が代と同じである。
心が大事なんだ、ただ単に言えばよいだけではないのだ。
その動作一つ一つに、申し訳ないという心が表れていないと、その言葉の持つパフォーマンスを全て引き出すことはできないのだ。
そして、僕は降車駅で降りた。
満員電車で吊革両手持ちを見ると、既に片手になっていた。
オヤジさん、「スイマセン」は言ったんだろうね。