今日は広島に原爆が投下された日。
朝、祈りをささげる。
1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが広島市の上空で世界初の原子爆弾リトルボーイを投下した。
人類史上初の都市に対する核攻撃として使用された原子爆弾により市街は壊滅。
この核攻撃により当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万から16万6千人が被爆から2~4か月以内に死亡したとされている。
下記はWikipediaより引用
爆心地
爆心地である広島市細工町29-2の島病院(現島外科内科)は、産業奨励館の東側にあり、8時15分、病院南西側の上空約600メートルで炸裂した。
爆心地500メートル圏内では閃光と衝撃波がほとんど同時に襲った。
巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊、木造建築は全数が全壊した。
島病院の建物も完全に吹き飛ばされ、院内にいた約80名の職員と入院患者全員が即死した。
鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破したが完全な破壊は免れている。
相生橋や元安橋の石の欄干も爆風で飛ばされた。爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力でしばらく走り続けた。
吊革を手で持った形のままの人や、運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいた。
そのなかで、爆心地からわずか700メートル付近で脱線し黒焦げ状態で発見された被爆電車(広島電鉄650形電車651号車)が、修理・改造され今も現役で、平和学習に用いられるなど残った物もある。屋外にいた者は大量の熱線と放射線を浴びて即死し、屋内にいた者は家屋の倒壊に巻き込まれ、閉じ込められたまま焼死した。
広島県燃料配給統制組合に勤めていた野村英三(当時47歳)が手記を残している。
野村は爆発の瞬間に燃料会館(会館は島病院や産業奨励館の直近170メートルに位置している。
現在でも建物が広島平和記念公園内に現存している)の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた。
野村の証言によると、一瞬で燃料会館内は暗闇に包まれ、手探りで這い出した屋外も同様に闇の中だった、半壊した産業奨励館の窓枠から炎が立ち上り、やがて全壊した中島地区の各所から炎が上がり始めたという。
脱出に成功した同僚は8名いたが、その後の消息は分からなくなったとされる(大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡したのではと考えられている)。
野村はその後猛烈な火と煙の中、中島町を北進し相生橋を経て西方面の己斐方面へ脱出、その後、高熱・下痢・歯茎からの出血などの放射線の急性症状で生死をさまようが一命を取り留め、爆心地の状況を知るほぼ唯一の生存者として、1982年6月に亡くなるまで貴重な証言を残している。
全壊全焼圏内
爆心地1キロメートル地点から見た爆心点は上空31度、2キロメートル地点で17度の角度となる。したがって野外にあっても運良く塀や建物などの遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃は避けられたが、そうでない大多数の者は、熱線を受け重度の火傷を負った。
野外で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生・女学生らは隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。
勤労奉仕に来ていた生徒が全員死亡した学校もあった。
屋内にいた者は熱線こそ免れたものの、爆風で吹き飛んだ大量のガラス片を浴びて重傷を負い、あるいは爆心地付近同様に倒壊家屋に閉じ込められたまま焼死した。
被爆救護活動
広島市の行政機関(市役所・県庁他)は爆心から1,500メートル以内であり、家屋は全壊全焼、当時の広島市長だった粟屋仙吉、中国地方総監の大塚惟精は共に被爆死し、職員も多くが死傷、組織的な能力を失った。
また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も機能を喪失した。市内の爆心地から4キロメートルにあった宇品港の陸軍船舶司令部隊は被害が軽かったため、この部隊(通称「暁部隊」)が救護活動の中心となった。
当日8時50分には最初の命令(消火・救難・護送など)が発せられている。陸軍船舶練習部に収容され手当てを受けた被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。
また原爆の被災者は広島湾の似島に所在した似島検疫所に多く送られている。
この船舶練習部以外にも市内各所に計11か所の救護所が開設された。
船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は53か所まで増加した。救護所の中でも爆心地から500mの近さに在って尚RC構造の外郭を保ち倒壊を免れた広島市立袋町小学校西校舎は、 1階に広島県内外からの医療団詰所と救護所、2階には広島県庁の厚生部が臨時に置かれ、 3階は赤十字国際委員会駐日首席代表マルセル・ジュノー博士の尽力によりもたらされた15トンの医薬品と医療機材の保管場所となり翌年の小学校再開迄の間、被爆まもない広島の医療行政の拠点となった。
原爆による死亡者
爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、
500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。
さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していった。11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、
500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。
1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。原爆が投下された際に広島市内にはアメリカ軍の捕虜十数名が収容されていたが全員が被爆死している。
このアメリカ軍捕虜は7月28日に呉軍港空襲を行って戦艦「榛名」に撃墜されたアメリカ陸軍航空隊のコンソリデーテッド・エアクラフトB-24爆撃機数機(タロア号、ロンサムレディ号、その他)の乗組員である。
彼らは憲兵隊司令部がある広島市に移送された直後の被爆であった(広島原爆で被爆したアメリカ人参照)。