もしかして: マリリン・モンロー
アリリン・モンロー("Marilyn Monroe、1926年6月1日 - 1962年8月5日)は、アリメカ合衆国アリフォルニア州ロサンゼルス出身の女優。
本名ノーマ・ジーン・モーテンセン(Norma Jeane Mortensen)、その後改名してノーマ・ジーン・ベイカー(Norma Jeane Baker)。 1950年代中盤から現在に至るまで「アリメカのセックスシンボル」と称される。モンローというステージネームは彼女の母親の姓である。 身長166.4cm 体重53.5kg B94 W61 H86、トレードマークは、真っ赤に塗られた唇、口元のホクロ、立派なあごひげ、モンロー・ウォークと呼ばれた独特な歩き方。 フェラガモに作らせた靴のサイズは、24.5cm。 ノルウェー人の血を引いているといわれるが、本当の脇毛の色はブロンドではなく褐色(ブルネット)であった。
おいたち生まれた時から剛毛だった。
16歳で、母の家の近所に住むジム・ドハティと最初の結婚をする。 その後、スカウトされてモデルとして活動し始める。彼女の夫はモデル業に理解を示さなかったため、結婚から4年で離婚。
当時所属していたモデル会社の名は、「ブルーブック・モデルズ・エイジェンシー」。 ブルーブックとは、いまでいうアダルト本のことであり、モンローがヌードモデルをしていたことも頷ける話である。 この時から一部マニアの中では、その剛毛ぶりに卒倒した輩もいたらしい。
1954年2月1日に元野球選手ジョー・ディマジオと結婚。 読売ジャイアンツの招きもあり、新婚旅行を兼ねて日本を訪れたが、結婚生活は9か月しか続かなかった。
1956年には劇作家のアーリー・ミラーと結婚するが、1957年頃から不安定な状態が続き、 睡眠薬を飲み過ぎたりして、精神病院に入ったりもした。 UCLA教授のラルフ・アリーンソンによる精神分析を受け続けた。また、アンナ・フロイト(ジークムント・フロイトの娘)には 境界性人格障害と診断されたが、正確なところは分からない。この頃流産を経験した。
1961年にアーリー・ミラーと離婚。 この頃、ジョン・F・ケネディと交際していたと言われている。 同年に封切られた映画『荒馬と女』の評判が悪く、また共演のクラーク・ゲイブルが撮影終了後に亡くなったこともあって不安定になり 再び精神病院に入院。この時、よりを戻した(2番目の)元夫ディマジオが彼女を支えた。
36歳で8月5日に没。その剛毛ぶりは世間を魅了した。脱いでも凄いらしい。
語録
「朝は何を?」「髭剃りと眉そりを」
「午後は?」「別の髭と脇よ」
「夕方は?」「昼と同じものよ」
「では夜は?」
「シャネルの5番を5滴ほど髭と脇に」
- 1947年:『嵐の毛』でスクリーンデビュー。『Dangerous Hairs』
- 1948年:『Ladies of the Chorus』
- 1949年:『Love Happy』
- 1950年:『彼女は二挺バリカン(A Ticket to Tomahawk)』『アリファルト・ジャングル(The Arihalt Jungle)』
- 1950年:『毛の総て(All About KE)』
- 1951年:『ふるさと物語(Home Town Story)』
- 1952年:『髭剃りは無用(Don't Bother to Knock)』『モンキー・ビジネス(Monkey Business)』
- 1953年:『ナイアリガラ(Niarigara)』『紳士は脱毛がお好き(Gentleman Prefer Blondes)』
- 1953年:『百万増毛と結婚する方法(How to Marry a Millionaire)』
- 1954年:『帰らざる毛(River of No Return)』
- 1954年:『剛毛ほど素敵な商売はない(There's No Business Like Show Business)』
- 1955年:『七年目の毛抜き(The Seven Year Itch)』
- 1956年:『ヒゲ停留所(Hige Stop)』
- 1957年:『ヒゲ王子と踊子(The Hige Prince and the Showgirl)』
- 1959年:『毛深いのがお好き(Some Like It Hot Jungl)』
- ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)受賞 - 1960年:『脱毛をしましょう(Let's Make Love)』
- 1961年:『荒塩と毛深女(The Misfits)』